あれは、一人暮らしのワンルームで、夏の熱帯夜にうんざりしていた、ある夜のことでした。ベッドに入り、スマートフォンをいじっていると、視界の隅、白い壁紙の上を、黒く、そして驚くほど素早い影が横切りました。ゴキブリ。その単語が頭に浮かんだ瞬間、私の心臓は、まるで氷の塊を飲み込んだかのように、冷たく、そして重くなりました。時刻は、深夜二時。殺虫剤は、切らしていました。そのゴキブリは、あっという間に、ベッドの頭側にある、本棚の裏へと姿を消してしまいました。私のベッドから、わずか数十センチの距離です。その瞬間から、私の安らかな眠りは、終わりを告げました。どうしよう。叩き潰す勇気はない。でも、このまま眠るなんて、絶対にできない。本棚の裏には、一体何匹の仲間がいるのだろうか。私が眠っている間に、這い出してきて、顔の上を歩いたらどうしよう。そんな、次から次へと湧き上がる、最悪の想像。私は、布団を頭の先までかぶりました。しかし、布一枚隔てた向こう側の闇が、これほど恐ろしいと感じたことはありませんでした。カサッ、という微かな物音に、何度もビクリと体を震わせ、耳を澄ます。自分の心臓の音だけが、やけに大きく部屋に響いていました。結局、私は、その夜、一睡もすることができませんでした。朝日が昇り、部屋が明るくなった時の、あの安堵感。しかし、それは、根本的な問題が何も解決していない、偽りの平和でした。その日から、私の生活は一変しました。夜、電気を消してベッドに入ることが、恐怖になりました。常に、どこかからゴキブリが現れるのではないかという強迫観念に苛まれ、わずかな物音にも過敏に反応するようになりました。あの夜、「見なかったこと」にして眠るという選択をしていたら、もしかしたら、その場は楽だったかもしれません。しかし、私は確信しています。もしそうしていたら、私は、自分の部屋が安全な場所ではないという事実から目をそらし、毎晩、見えない敵の影に怯えながら、質の悪い眠りを繰り返していたことでしょう。あの眠れなかった一夜の恐怖は、私に、問題から逃げるのではなく、正面から向き合うことの重要性を、痛いほど教えてくれたのです。
私がゴキブリを放置して眠れなくなった夜